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手記1

兄の死後不登校を乗り越えて再登校した中学1年生のケース


 6年生の次男が登校をしぶりだしたのは,長男が亡くなってすぐのことでした。何事もなく元気に育ってきた長男が突然発病したのは,高校3年生の冬,次男が小学校4年生の時のことです。それから長男は1年7ヶ月の闘病の末,その甲斐もなく亡くなりました。病名は急性リンパ性白血病でした。病気らしい病気をしたこともなかったスポーツの大好きな長男は発病したその日から『生きる』ことへの壮絶な闘いを開始したのです。一時は,幸い2歳下の妹と白血球が一致し,骨髄移植をして元気を取り戻したかのようでしたが,すぐに,再発をしたので,妹の回復を待って2回目の移植をしました。(1年に2回というのはあまり例がありませんが,悩んだ末やむなく実施いたしました。)しかし又,再発し,長男は,やけになって周囲に迷惑をかけることもなく,病魔と一生懸命に闘った思い出と妹の腰に2ヶ所の傷を残し,逝ってしまいました。

 そして長男の亡くなった後,『生きる』という課題が私達家族に与えられました。私達は,何事もなく送ってきた毎日の生活を,今は,一生懸命生きなければいけないことを痛感しました。それは次男にとっても不登校という形で現れてきました。そのとき次男は6年生になっており,身長は私を越すようになっていましたが,最愛のお兄ちゃんの死のショックと,お母さんの留守(ずっと兄に付き添っていたので)の間のがんばりで,精神的に疲れてしまった様子でした。本当に両親にとってはもちろんですが,妹,弟にとっても苦難の日々だったのです。

 はじめは登校班で行きたがらず,電柱にかくれかくれ行く次男を見て,私も家族も「そりゃあ注目になるし行きたくないよね。」なとど,当たりまえの様に思っていました。長男は次男と8歳も年が違っていたので,とりわけ弟をかわいがり,病気でも体調の良い時は,弟の入っているソフトボールのチームのコーチも引き受けていました。そのために近所の子ども達にとっても長男の死はとてもショックだったようです。それでも次男は,1ヶ月先にある小学校最後の修学旅行だけは楽しみだったらしく,学校生活は無事送っていたようです。只,私は母として参観日の様子やもっと小さな時でもじっと聞いていた1時間程度のお経がすわっていられない様子を見て,何か次男に対して以前と違うものを感じていやな予感がありました。後になってこれが退行現象だということを知りました。まるでそれは12歳の次男の姿ではなかったのです。そして次男は修学旅行から元気よく帰ってきた翌日から学校へ行かなくなりました。きっかけは修学旅行の作文が一行も書けなかったことでした。

 朝,ふとんから,なかなか起きられない息子を見ながら,これが不登校というものなのだろうか,よその事だ,と思っていた不登校がわが子にも起こったのです。小さい時の愛情不足とか,本人が繊細すぎるとかいろいろあった私の不登校への思いはまるで偏見であった事を痛感し,現在よく言われているように,不登校は誰にでも起こりうることがこの時,わが身に起こって初めてわかったのでした。何かと何かが複雑に絡み合い,不登校になる条件がいくつかそろえば,誰でも不登校になるのだということが,そして今の学校が癒しの場となるにはあまりにも忙しすぎるのかもしれないということがわかってきました。幾日かたつうちに次男は完全に不登校になりました。  それから,夫婦で,親子で,何ヶ所かの相談所,病院等を訪ね歩きました。その度に親身になって聞いては下さるものの「お母さん,そっと待ちましょう」「お兄ちゃんの死のショックからです。時が薬です。待ちましょう。」と言われました。当たり前の生活を送りながら,時がたって癒されていくのを『時が薬』と言うのではないでしょうか。朝がきても,カーテンを開けずにベッドにじっとしていることをいつまで続ければ心が癒されていのでしょうか。私にはわからないまま,中学校になったら,行くという次男の言葉を信じながら,小学校再登校は半ばあきらめていました。今,思えば妙に親子でやすらかな期間でした。毎日友達が朝迎えに来てくれる事もなく(親にとって,すごくうれしくもあり,気を遣う時間でもあるのです。もちろん本人にとっては親以上でしょう。)静かな一日を親子で送っていました。しかし,そのやすらかな期間は本人にとって不登校の二次的要因(勉強がおくれる),三次的要因(友達との関わりが希薄になる等)をつくっていった半年間だったのです。

 中学生になった次男は約束どおり1ヶ月程度登校しました。しかし半年間のブランクは次男にとってはあまりにもきついものだったのかもしれません。まるでカプセルに入ったまま学校と家を往復していましたが,とうとう熱を出し楽しみにしていた運動会も休み,又,その日から完全な不登校になってしまいました。そのときに家から一歩も出ることができない状態でした。俗に言う引きこもりです。それでも,そっと待っていればよいのだろうか。そっと待っている間に,何も解決しない原因探しをし,ただただ落ち込んでいくばかりでした。母が落ち込んで,子どもの気分が晴れるはずがありません。昼と夜は完全に逆転し,学校へ行かない人生もある様な気がしてきました。

 その一方でどうしてかわいがって育てたわが子なのに,ほめたり,怒ったり,時には励ましたりということを,自由にできないのだろうか。どうして,そっとしておかなければいけないのか。不安と疑問を抱きながらの毎日を送っていた時に,ご縁があって,桜井先生とお会いする機会がありました。桜井先生は私の話を4時間ほど聞いてくださり,「お母さん,自分の子どもさんです。自分が思ったようにほめたり怒ったりして子育てしてください。お兄ちゃんが病気になる前の子育てを思い出してください。お母さんらしく,当たり前の子育てをしてください。」と言われました。今まで何ヶ所もの相談に行く度に,「そっと見守りましょう」「待ちましょう」と言われ続けてきました。私も主人もつい何年か前までは世間の家庭と同じ様に子育てをしていましたので,長男も長女も難しい年頃を無事過ぎて,「お母さんがお母さんで良かった」などという事を親子で話しあえる年になっていました。だからどうしても兄の死と言う悲しい現実のために,不登校になった上に,過去の子育て,ましてや,生まれたときの体重から調べられ,指吸いの状況までの報告と,母親の子育ての間違いばかりを指摘される様な従来の指導にいつも疑問を持っていました。それゆえに,藁をもすがる気持ちで桜井先生にカウンセリングをお願いしました。

 桜井先生はそれから行動療法の技法を用いて,Step by Stepで次男を登校へと導いてくださいました。もともと私も主人も学校には行って欲しいと願っていました。学校へ行くことがベストではなくても,少なくともベッドの上でじっとしている生活よりはベターだと思っていました。それは主人も私も長男も本当に充実した学校生活を経験していたからです。しかし,嫌がる息子を見ていると,決心がゆらぐ日もありました。ある日,「そんなに嫌なら学校に行かなくてもいいよ」と言うと,大きな体の息子が,涙をいっぱいためて,「学校に行きたくないなんて一度も言ったことないじゃあないか」と言う大きな声(むしろ叫びに近い)が返ってきました。今まで,「行きたくない」と言っていたのは,「行きたいのに行けないんだ」ということだったのか,と改めて確信した私は,また親子で桜井先生にがんばってついて行こうと決心しました。それから次男は,桜井先生と中学の先生方,そして親友のY君をはじめたくさんの友達のおかげで,やっと心の中に兄の存在の落ち着き場所を見つけたのか(それは私達家族も同じですが),一日一日と元気を取り戻して登校する様になりました。

 あの日から3年目のこの秋,長男の命日が近づいてきたある日,次男は「ただいま,お母さん,僕,学級代表になったよ」と空のお弁当箱を提げて元気に学校から帰ってきました。ちょっと困ったような,でもうれしそうな顔を見て,長男が病気になってからの5年間がくるくると頭の中を回りました。「K君,学校へ行っててよかったと思う?」私の質問に笑顔で「まあね」と答えた次男は気楽に友達の所へ遊びに行ってしまいました。

 高校受験が迫っています。欠席日数がとても多いのは不利なのだろうか,不安はまだまだ尽きませんが,今ではこの笑顔があるかぎり親子でがんばって行ける気がしています。桜井先生には本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 このたび,桜井先生から文章の依頼があった時,わが子の事を文章に書き残すということに最初とても抵抗がありました。しかし余命3ヶ月と言われた長男に1年7ヶ月の時を与えてくれたドナーの娘(骨髄移植のドナーは決して楽なものではありません)と,愚痴ひとつこぼさずに病魔と闘った長男,そして長い間小さいながらも留守を守ってくれた次男に,いつか感謝の気持ちを文章で表したかった事,そして私の様に不登校児を持って途方にくれているお母さん方がこれを読んで少しでも参考になればと思い書かせていただくことにしました。

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