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手記3

留年を乗り越えて学校復帰した高校2年生のケース


 私にとって不登校とは、かけがえのないものであり、自分を見つめ直すよい機会でした。確かに不登校をしているときは、自分を否定し続け、存在することですら嫌になったときもありました。その当時を振り返ると、とてつもなくどん底まで落ちたのだと思います。だけど、今私は、ここ数年で経験したことで、生きていることがとても嬉しく思えるようになりました。

 私が高校2年生になった頃、毎日学校に通うこと、自分の気持ちをうまく伝えることのできない生活に嫌気がさし、友だちと話していても自分の存在の意味を感じなくなっていました。そして、5月のある日、友だちと喧嘩をしたことがキッカケになり、腹痛だと偽って学校を休みました。その後、3日、4日と徐々に休み始めました。

 最初は本を読むことやテレビを観ることで休んでいる自分を回避していました。家にいても、「ああ、学校が始まったな。今何の授業をしているんだろう。」と気になって落ち着きませんでした。それから休む日数が増えるに連れて、「どうすればいいんだろう。何かしないといけないことは分かっているんだけれど・・・。友だちとのことはどうすればいいんだろう。きっと嫌われているだろうな。」と思い悩んでいきました。

 この時学校へ戻っていたらよかったのかもしれません。でも私には勇気がありませんでした。そして、だんだん私は、「学校」と言う言葉を聞くだけで不安になり、恐ろしくなってきました。実際に、学校へ行くことを恐れていました。だからバイトをすることで、学校のこと、自分と向き合うことを回避していたのです。担任の先生が家庭訪問をして下さった時も、自分の部屋にバリケードを張って先生に会うことはできませんでした。また、2学期に入り、友だちの誘いを受けて学校に登校しても、学校内に2~3時間いるのが限界でした。それは学校行事が途中参加になり、ついていけなかったことや、5ヶ月間休んでいたことで私と友だちとのリズムが違っていたので、一体何を話してよいのか分からなくなってしまっていたのです。そして、友だちを避けるようになり、ますます自分の内に籠もり、自分の思いも今まで以上に隠すようになりました。

 こうして、誰にも相談することなく、「ここに私の居場所はない。」と考え、家族に迷惑をかけることは分かっていたけど、両親と担任の先生に「留年する」と宣言しました。バイトも学校に行っていない後ろめたさから辞めました。こうして私は完全に家に閉じこもってしまったのです。でも私の気持ちの中には「学校」のことを考えなくてもよいと思うとどこか安心している自分がいました。しかし、家の中では家族、とりわけ母親と顔を合わせる度に口論するようになりました。それは私自身が無気力で何もしていない自分にもどかしさを感じ焦っていたことと、私が感じている苦しみを両親に理解してもらえない歯がゆさが交錯したからだと思います。そして、母親の露骨に顔に出すところを苦手に感じ始め、母親に話しかけられてもどことなく叱られているような気がして、だんだんだまり込むことが多くなりました。  休み始めてからの毎日は口論の連続でした。だから私は無性に家にいたくなかった。そんな時です。母親から桜井先生のことを聞き、先生に会いに出かけました。

 最初は自分が想像していた感じとは違ったので、あまり先生のところに行きたくなかったけど、「もう少しで学校に戻るのだから」と思い直し、先生のところに足を運びました。そして、カウンセリングを受け、学校に戻る準備を始めました。でもまだどこか他人行儀で、しっくりいきませんでした。そんな中、再登校に向けて桜井先生と一緒に学校へ行き、新しい担任に会うことになりました。だけど私は先生達が話している間に逃げて帰ってしまいました。途中で、桜井先生に見つかり、先生に「逃げてはいけない。親の重荷になりたくないでしょう。」と、初めて本気で怒られ、私は正気を取り戻しました。私は不登校をしていた1年間、誰かに面と向かって話をし、自分を否定されるのではないかとか、私を受け入れてもらえないのではないかと怖くて怖くて仕方がありませんでした。だからその時は、先生が真剣に自分に向かい合ってくれたことで、何だか救われたような気がしました。

 しかし、「もう逃げない」と自分にも先生にも約束をし、私は再び2年生として学校に戻りましたが、決して楽な毎日ではありませんでした。そこには私にとって不安になることやストレスを感じることが山ほどあったのです。例えば、新しい教室や新しいクラスメート、両親からの「私が学校を休まないだろうか」と言う無言の視線に、私は精神的に疲れて果てていきました。そして、学校を休んで、桜井先生の所に行っているときに、「家に帰りたくない。」と思っている内にどんどん体の自由がきかなくなり、全身が硬直していきました。いきなりだったから自分でも驚いてしまいました。しかし、硬直していてどんなに苦しいときでも、家に帰ること、両親に会うことを心が拒否していきました。その時は、両親に会いたくなかったし、声も聞きたくなかった。そう感じていたと思います。そして、私は病院に入院しました。入院生活では、家族との面会を主治医の先生が止めてくれていたので、何となくホッとしていました。その間、桜井先生とは色々な話をしたと思います。でも桜井先生も必要以上に優しくはしてくれませんでした。

 今思うと、先生は私が先生を家族から逃げる口実にしていたことを知っていたのかもしれません。私は次第に淋しくなって、無性に家族に会いたくなってきました。入院して2週間ぐらい経った日のことです。初めて両院が面会に来てくれました。久しぶりに両親に会って、恥ずかしい気持ちや嬉しい気持ちと一緒に、両親に悪いことをしたと言う気持ちが入り交じって、とても複雑な感じがしました。だけど両親は戸惑いながらも私を受け入れて、嬉しそうに会ってくれました。しかし、その日の夜、気持ちの整理のできないまま、私は自殺未遂を図りました。突発的に病室を抜け出して屋上に上がりました。何だか自分が訳が分からなくなり、「もうどうでもいい、死ねば楽になる。」と言う気持ちになって、屋上の給水塔の上にうずくまっていました。もうその時には、自分で自分をコントロールすることができなくなっていました。その後、桜井先生に説得されて、退院して家に帰ることになりました。母が仕事を休職して、私を迎えてくれたことは大変驚いたけど、言葉では表せないほど嬉しかったです。家族が私が思っている以上に私のことを支えてくれていることを知りました。だからこそ私は再び学校に戻ることを決心しました。やはり私にとって生きていくために、今学校へ行くことは大切なことだと思いました。

 桜井先生の指導で再登校が始まりましたが、先生はまず「好きな科目の好きな時間から学校へ帰ろう」と言ってくれました。  始めの頃はとても緊張して、クラスの友だちとも話をせずに帰る毎日でした。週末は桜井先生と1週間の目標を立て、それを実行することを約束しました。次第に毎日学校に行っていると新しい友だちもできました。そして、期末テストを全教科受け、1学期も終わる頃には、週に1,2度だけど一日中学校にいられるまでになりました。私にとってお昼を越えることは大きな壁だったので、昼休みを乗り越えられたときにはとても嬉しかったです。

 「海を見な! 山を見な! 花を見な! どう感じる? もし、これを美しい! スゴイ! イイなぁ~! と感じることができるなら きっとうまくやっていける。そう、そういう小さな事だけど日常に目を向けてみるのもイイかもよ!」  これは休んでいた頃に、中学時代の先輩がくれた手紙の一文です。この手紙をもらったとき、私はすぐに海、山、花を見ました。でもその時は、ただ美しいだけ、ただスゴイだけで何も感じなかったけど、今は自然の姿を見ていると力が湧き出てくるような、イライラしているときや不安なときには、気持ちがスーッと楽になるような気がします。そしてこんな些細なことでも自分で心のケアーができるのだと感じています。

 私の学校復帰への一番の山場は、色々と行事の多い2学期でした。1学期と違い、そろそろバスや自転車を使って自分の足で学校に登校する時期が来ていました。また、学校で過ごす時間が増えたり、学校行事に参加したりなどで、友だちと過ごす時間も増えました。無断欠席した翌日、クラスの友だちに「昨日どうしたの?」と聞かれ、返す言葉が無く、なにも言えませんでした。去年の私だとここでまた不登校を起こしていたと思います。でもその時初めて、自分に負けたくないという強い気持ちが沸いてきて、「休まないぞ!」と決心しました。こうして修学旅行に参加した頃から学校に登校することの抵抗がだんだん少なくなりました。その頃はよく「昔の自分を引きずってはいけない。」と自分に言い聞かせていました。

 しかし、順調にいっていた再登校も、次に「甘え」が私を襲いました。毎日のように遅刻をしていく内に私の中で、「遅刻は仕方がない」と思っていました。ズルスルと遅刻が続いたとき、桜井先生に「時間にルーズになって困るのは自分なんだ!」と叱られました。私はいつも遅れる度に父に助けてもらっていたことを思い出しました。父の心労はどれ程だったのだろうと考えるとすまない気持ちでいっぱいです。私はここでまた1つ自分の甘えと対峙し、壁を乗り越えたような気がします。こうして私は1つ1つの壁を乗り越えて、3学期には完全登校できるまでになりました。

 自分なりに精一杯頑張った3学期でしたが、やはり一番の試練は在校生として、かつての同級生を見送ったことでした。卒業式の前日、桜井先生に「自分の過去をしっかり見つめるためにも、そして自分の過去に責任を持つためにも、卒業式に出て、友だちをしっかり見送りなさい。」と言われました。全く自信はなかったけど、当日は鉛のような足を引きずって卒業式に在校生として出席しました。友だちが喜んでいる姿を見ると、妬ましくもあり、辛くもありました。帰りのバスの中で、涙が出て止まりませんでした。その涙を拭きながら、私は彼らのように来年は絶対に卒業したいと思いました。こうして、私の2度目の2年生は紆余曲折しながら無事に終了しました。

 高3の春からは、学校へ向かう足取りも軽く、毎日が楽しみでした。学校にいるだけで不安になったり、緊張したことが嘘のように、今では自然な自分を友だちの前で平気で出せるようになりました。留年したことですら、笑い話になるぐらいです。時には落ち込んだりしますが、将来のことも、自分のやりたいことも考えられるようになりました。  この2年間を振り返ってみると、自分の破滅的な行動がどれだけ周りの人に迷惑をかけてきたか想像もつきません。桜井先生や山本先生、学校の先生方や多くの友だち、そして、父、母、祖母の支えなしには私の不登校は克服できていなかったと思います。

 4月から大学生になります。今は一日も早く大学に通いたくて仕方がありません。そして、私は私の経験を生かして、不登校で苦しんでいる人たちに、少しでも学校生活の喜びを体験してもらい、彼らと共に歩ける人間になりたい、そのために大学でより多くのことを学ぼうと考えています。今は、やっと自分の壁を乗り越えたばかりのヒヨコですが、多くの人に混じり、多くの経験を積んで、自分を今まで以上に成長させていきたいと思っています。私を支えてくれた皆さん有り難う、そしてこれからもよろしくお願いします。

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